寓話と公案とシュレーディンガーの猫。さて、荘子です。 『MATRIX』と、荘子なんですが・・・ 参照:当ブログ 荘子と進化論 その48。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201005010000/ 同49。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201005030000/ Spoon boy: Do not try and bend the spoon. That's impossible. Instead only try to realize the truth. Neo: What truth? Spoon boy: There is no spoon. Neo: There is no spoon? Spoon boy: Then you'll see that it is not the spoon that bends, it is only yourself. 参照:there is no spoon original english http://www.youtube.com/watch?v=dzm8kTIj_0M&feature=related 「マトリックス」で使われている、このシーンが『無門関』の「非風非幡」であるということの続きです。 「六祖、因風揚刹幡。有二僧、對論。一云、幡動。一云、風動。往復曾未契理。祖云、不是風動、不是幡動、仁者心動。二僧悚然。」 →六祖慧能の話。風が、門前の旗をなびかせていた。二人の僧がいて、議論をしている。 一人は「あれは旗が動くのだ。」といい、 一人は、「あれは風が動かしているのだ。」という。 双方譲らず、結論をみない。そこでが六祖慧能が言った。 「これは風が動かしてるのではない。旗が動いているのではない。おまえたちの心が動いているのだ。」 二人の僧は慄然とした。 この「非風非幡」というのは、荘子にも同じような話がありまして、 「或之使、莫之為、疑之所假。吾觀之本、其往無窮。吾求之末、其來無止。無窮、無止、言之無也、與物同理、或使、莫為、言之本也、與物終始。道不可有、有不可無。道之為名、所假而行。或使莫為、在物一曲、夫胡為於大方?言而足、則終日言而盡道。言而不足、則終日言而盡物。道、物之極、言、默不足以載。非言非默。議其有極。」(『荘子』 第二十五) →有為であるという説も、無為であるという説も、ただ「そうかもしれない」という推測の域を出ない。言葉によって根本を突詰めても極まるところがなく、末節に拘っても留まるところがない。無限の止めなき世界は言葉で言い表すことはできず、ただ物の理と一になるしかない。有為であるとする説と、無為であるという説は、議論のきっかけにはなるが、結局のところ、物にとらわれたままで、終始するだけだろう。「道(tao)」とは、有るということもできず、無いということもできない。「道」という名前すら仮のものに過ぎない。有為の説も、無為の説も、物の一部分について語っているのであって、天の大いなる働きには、何の関係もない。もし言葉が真実を説明するのに十分な道具あったとしたら、一日中話し続けてその全てが道について表現できるということになるが、言葉が不十分な道具であるとすると、一日中話し続けても、全て物を語っているにすぎない。道というのは物の究極であり、言葉と沈黙のみでは把握することはできない。言葉と沈黙にもよらずして、その極まりあるところを議論せよ。」 ・・・これ、なんですが、これ、インドのウパニシャッド哲学で言うところの「梵我一如」ってやつでして、「荘子」や「禅」だと、こういう表現になっています。何を言っているのか分からないと思いますが、一番説明しやすいのが、 「シュレーディンガーの猫」です。荘子のいうところの「與物同理」ですよ。 >「シュレーディンガーの猫」は、思考実験の名称である。まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質のラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく。もし、箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る。一定時間経過後、果たして猫は生きているか死んでいるか。 >この系において、猫の生死はアルファ粒子が出たかどうかのみにより決定すると仮定される。そして、アルファ粒子は原子核のアルファ崩壊にともなって放出される。このとき、例えば1時間で箱に入れた量のラジウムがアルファ崩壊してからアルファ粒子が放出される確率が50%だとする。この箱の蓋を閉めて1時間放置したら、人間が観測するまでは、猫が生きている確率は50%で、死んでいる確率も50%となる。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなければならない。 ↓↓こっちの方が分かりやすいですね↓↓ http://www.youtube.com/watch?v=Q8savTZOzY0 参照:Wikipedia シュレーディンガーの猫 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB シュレーディンガーの着想は、老荘ではなくて、インドの思想からだと思われます。表現方法は全く違いますが、ほぼ、同じ内容のものがあるわけです。・・・というか同じ東洋の叡智であってもインド哲学からみれば、『荘子』や『禅』の異常なまでの簡明さというのは、驚異といわざるを得ません。 そして「シュレーディンガーの猫」の正解は・・・ >自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。 >君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。(スティーブ・ジョブズ) 『夫れ大塊は、我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり』(「荘子」太宗師篇) → 天地は、私を大地に乗せるために肉体を与え、私を働かせるために生命を与え、私が永遠に働けぬよう老いを与え、私を安息にするよう死を与える。すなわち、生きることを大切にするということは、死を大切にするということである。 生と死は一つということですよね。そうですね。まさにこれ。レベルが違いすぎるんです。 参照:スティーブ・ジョブズと禅と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5010 ・・・ものすごくレベルの低い話にすると、宮崎の口蹄疫の最大の敵も荘子のいうとおり。人類史上最悪の伝染病は「恐怖」ですわ。 長岡半太郎さんとか、湯川秀樹さんが世界的な物理学者となる前に「荘子」を読んでいるのは、単なる偶然ではないんですよ。 マルティン・ハイデガーがパクリまくった(笑)「存在」だってそうなんですよ。 参照:湯川秀樹 創造的人間:東洋的思考から理論物理学へ http://www.youtube.com/watch?v=CqNPmXouwqc 当ブログ 長岡半太郎と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007 当 湯川秀樹と荘子 その1。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5008 同 湯川秀樹と荘子 その2。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5009 当ブログ ハイデガーと荘子 その1。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5020 面白いものでね、今度ジェームス・キャメロンが実写化する、『銃夢』では、『田舎荘子』に登場する「木猫」を、『不思議の国のアリス』のチシャ猫と、シュレーディンガーの猫をパロディにしています。 参照:アバター(AVATAR)と荘子 その4。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5042 武道と田舎荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5013 F・コッポラが『コッポラの胡蝶の夢』を公開するのにも意味があるわけです。レベルが違うんですよ。老荘の哲学って、最近は日本人のほとんどが読みませんが・・・ キサマ等のいる場所は既に---我々が2000年前に通過した場所だッッッ!!!!(烈海王) いや、真剣に越えてますよ。老荘は。 今日はこの辺で。 |